祖父は少し変わっている。普通はしないような失敗や勘違いをよくしてしまう。いわゆる天然ボケというやつだ。
例えば以前、運転免許の返納に「車で」行ったことがあった。返納前に気づいたからよかったものの、気づかずに返納してしまっていたら、乗って行った車はどうするつもりだったのだろう。他にも、電車の女性専用車両にそれと気づかず乗ってしまったことがある。降りてくるなり、ホームで待っていた俺に「自分以外全員女だった!奇跡だ!」と自慢げに語る姿が忘れられない。あとは、店で試着した服をそのまま着て帰ってしまったこともある。いくつか同時に試着して、一点だけ脱ぐのを忘れてしまったらしい。大急ぎで店に戻って棚に返したそうだ。そこは、せめて購入してほしかった。他にも、喫茶店でトイレから戻る際に席を間違えてしまい、他人のコーヒーを飲んでいたなど、数え出すときりがない。
祖父は五年ほど前に祖母に先立たれてから一人で暮らしている。二人はとても仲が良かった。喧嘩をしている姿は見たことがない。祖父の天然ボケを近くで見て、祖母はいつも優しく微笑んでいた。
俺はたまに祖父に会いに行くようにしている。実家に住んでいた時ほどではないが、社会人になって一人暮らしを始めてからもちょくちょく祖母の家に顔を出す。特に理由はないが、ただなんとなく、たまに顔が見たくなるのだ。
先日は80歳の誕生日を一緒に祝った。普段とは違うことがしたいと思い、祖父が大好きな歌手のディナーショーに行くことにした。当初、俺は行く気がなかったのだが「一人じゃ寂しい」ということでペアチケットを購入した。
当日、電車に乗ろうと二人で駅に向かった。
「楽しみだな!」
祖父は初めてのディナーショーということで、いささか興奮気味である。肩には大きめのショルダーバッグを掛けている。あれには一体何が入っているのだろう。

駅に到着した後、俺は切符を一枚買って祖父に渡した。当たり前だが、彼はICカードなど持っていない。
「そろそろ電車が来るからホームに移動しよう」
俺はそう言って、自動改札機にICカードを読み取らせた。改札を抜けてふと振り返ると、後ろにいた祖父が立ち止まってあたふたしている。よく見ると、切符を改札機のIC読み取り部に何度も接触させている。
「反応せん」
彼はこっちを見て真顔でそう言った。
「切符はこっち!」
俺はすぐさま切符の投入口を教えた。「そっちか」と言いながら切符を投入する祖父。これで一安心。と思ったら、今度は出てきた切符を取らずに改札を出てしまい、辺りにエラー音が鳴り響いた。
そんなこんなで、電車に乗り、なんとか目的の駅にたどり着くことができた。
「昼ごはん、何食べたい?」
駅前にはたくさんの飲食店が並んでいる。ちょうど昼時だったのでランチでもしようと思い、祖父に問いかけた。
「ざるそば」
祖父は悩むことなく即答した。それほどざるそばが食べたかったのだろう。
俺たちは近くの蕎麦屋に入った。テーブルに置かれたお品書きを見て、何を注文しようかしようか考える。思いのほかメニューが豊富で悩んだが、せっかくだから祖父と同じものを食べようと思い、ざるそばに決めた。
「すいませーん」
俺は店員を呼ぶため声を張った。
「はーい」
元気の良いおばちゃんが寄ってきて「何にしましょう?」と俺たちに聞いた。俺が「ざるそば二つ」と言おうとしたその瞬間、正面の祖父の口が開いた。
「カレーうどん一つ」
…
なんとか冷静になって考える。この老人は、ざるそばが食べたいと言った。だから俺たちはこの店に来た。つまり、今言うべき言葉は、
「ざるそばちゃうんかい!」
「お兄さんは何にしましょう?」
俺の鋭いツッコミは店員のおばちゃんの声によって即座に打ち消された。
「ざ、ざるそばください」
結局、祖父がカレーうどん、俺がざるそばを食べることになった。待っている間、祖父はテーブルに置かれたポイントカードの案内を熱心に読んでいる。俺は「ポイント貯めるほど来ないだろ」と心の中でツッコんだ。
しばらくして注文の品が運ばれてきた。祖父は「うまい、うまい」と言いながら完食した。紙エプロンにはたくさんのカレーが飛び散っている。
「ちょっとトイレ行ってくる」
食後、俺はそう言って席を立った。用を足して席に戻ると、祖父の姿がない。辺りを見回すと、レジで支払いをしている姿が見えた。相手がトイレに行っている間に会計を済ませるとは、まるでモテる男みたいだ。俺は祖父を少し見直した。
「ここは俺が払おうと思ってたのに」
俺がそう言って近づくと、祖父はこちらを見て首をかしげた。なんと、彼は支払いをしていたわけではなく、ポイントカードの説明を受けていただけだった。
結局、俺が支払いをして店を出た。祖父はちゃっかりポイントカードをつくってポイントを貯めていた。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
そう口にする祖父を見て、衝撃の事実に気がついた。信じられないことに、彼はまだ紙エプロンを付けたままだった…
それからは、喫茶店に入るなどしてゆっくりと過ごした。その間もいくつかの天然エピソードが生まれたが、書ききれないので割愛させてもらう。
そして夕方になり、本日のメインイベントであるディナーショーの会場に入った。入口には本日の主役である男性歌手のポスターが何枚も貼ってある。祖父と同年代のフォークシンガーで、俺も名前くらいは聞いたことがある。祖父は昔からこの人のファンで、家で曲を流したり口ずさんでいる姿を何度も見たことがある。
「デビュー50周年記念!待望のニューアルバムを引っ提げてのディナーショーツアー!」
ポスターにはそう書かれている。つまり俺は、デビュー50周年のニューアルバムを引っ提げた歌手のイベントに、ショルダーバッグを引っ提げた生誕80周年の老人を引っ提げてやってきた客ということか。もし「引っ提げ大会」という名の大会があるとすれば、きっと俺が優勝するだろう。
ポスターの前で写真を撮った後、受付を済ませて席に着いた。
すると、祖父がショルダーバッグの中からおもむろに何かを取り出した。何やら四角い物体だ。A4サイズくらいで少し厚みがある。祖父はそれを大事そうに膝の上に置いた。よく見ると黒い外枠で囲まれている。やっとわかった。これは祖母の遺影だ!
俺が言葉を失い固まっていると、祖父は「ばあさんもこの歌手のフアンだったから」と呟いた。
亡くなった祖母にも見せてやりたいと言う気持ちはとても素晴らしい。でも、だからと言って黒縁の遺影をそのまま持ってくることはない。言ってくれれば、もう少し小さな写真を準備したのに。
あと、どうでもいいことだが、年配の人が「ファン」を「フアン」というのはなぜなんだろう。
そうこうしていると、料理が運ばれてきた。今回のディナーショーでは、普段食べられないような豪華なフルコースが提供される。
案の定、祖父は膝の上の遺影のせいでとても食べづらそうだった。
「ディナータイムの時はしまっておいたら?」
「いや、ばあさんと一緒に食べたいんだ」
結局、二人で交互に持つことにして食事を進めた。祖父が遺影を持って、俺が一皿を完食。次は俺が遺影を持って祖父が一皿を完食。このような流れでフルコースを堪能した。
「おいしいかったな」
祖父はそう言って満足げな顔をした。なんとなく、遺影の祖母の表情も幸せそうに見えた。
ディナータイムが終わり、ショーが始まった。司会の呼び込みを受けて歌手が登場する。客は盛大な拍手で迎えた。
「みなさんこんばんは」
会場に歌手の柔らかい声が響いた。ステージにはマイクスタンドと椅子だけが置いてあり、ギターを肩に掛けた歌手がそこに座っている。バンドメンバーは見当たらない。ギター1本でディナーショーをやるとは、さすが往年のフォークシンガーである。
長めのトークが終わり、やっと歌唱が始まった。味のあるギターの音色と澄んだ歌声が心地良い。曲調の古くささは否めないが、それがまたノスタルジックな雰囲気を醸し出していて魅力的だ。
「次はリクエストに応えちゃおうかな」
何曲か終えた後、リクエストコーナーが始まった。
「誰か、聞きたい曲のリクエストはありませんか?」
歌手が観客に投げかける。
「はい」
そう言って右手を高々と上げたのは紛れもなく我が祖父だった。ピンと伸びた指先からはなんの躊躇も感じられない。
「ではそこの男性にマイクを持って行って」
歌手がスタッフに指示をして、祖父の手にマイクが届けられた。
「ではお父さん、リクエスト曲はなんでしょう?」
歌手が問う。
「…」
祖父は何も言わない。どうしたのだろう。そのまま10秒くらいが経過した。場内は静まり返っている。祖父は無表情のまま固まって動かない。俺は状況を察した。おそらく、祖父は曲名が出てこないのだ。俺が「大丈夫?」と声をかけようとしたその瞬間、祖父の口が動いた。
「♪君と出会ったこの季節
雨の多いこの季節
おぼえているかい?
あの日の急な夕立」
俺は耳を疑った。曲名を忘れた祖父はなんと「歌い出す」という暴挙に出たのだ!もちろん会場はざわついている。
「♪横丁の角に一人立ち尽くす君
僕はそっと傘を差し出した」
祖父の歌は止まらない。
その時、スピーカーからギターの音色が聞こえてきた。歌手が機転を利かせて祖父の歌声に伴奏を添えてくれたのだ。
「せっかくなのでみんなで歌いましょう」
歌手がそう投げかけると、会場からぽつりぽつりと歌声が聞こえてきた。それは徐々に増えていき、最終的には会場全体での合唱になった。皆、昔を懐かしむような表情をして歌っている。
曲が終わると、会場は今日一番の大きな拍手に包まれた。
「お父さん、ありがとう」
歌手が祖父に声をかける。
「ありがとうございました」
祖父はそう言って、マイクをスタッフに返した。
イベント終了後、お客さんがたくさん祖父の元に寄ってきた。皆、祖父に握手を求めたり、「ありがとうございました」と礼を述べたりしている。
「昔を思い出して幸せな気分になりました」
「思い出の歌を歌えて嬉しかったです」
そんな声も聞かれた。
祖父はいつも失敗や勘違いばかりしている。だけど、それが今回みたいに多くの人の幸せにつながることもあるのだ。俺は今日、祖父のことを益々好きになった。
ディナーショーからの帰り道。祖父の家の最寄駅で電車を降りた。時間も遅くなったし、今夜は泊まらせてもらおう。俺はICカードで自動改札機を出た。後ろから切符を通す音がする。どうやら今回はうまく投入できたようだ。
数秒後、後ろから祖父の声がした。
「切符が出てこない…」
「当たり前だろ!出てくるのは改札に入る時だけ!」
俺は鋭くツッコミを入れた。
最後まで楽しい一日だった。


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