これはある女性の話だ。
彼女の名はマキ。歳は20代前半で、香水店で販売員の仕事をしていた。人気の店でお客さんも多かったので、仕事はとてもハードだった。毎日休む暇も無く店頭に立ち続け、閉店後にも多くの事務作業をこなしていた。一日の仕事が終わり帰宅するころには、体力もすっかり底をついている。そんな状態で自炊などできるはずもなく、帰りは決まって家の近所のコンビニで弁当やお酒を買って帰っていた。
そのコンビニで働くアルバイトの中に、外国人の若い男がいた。東南アジア系の顔立ちで、言葉は片言だった。名札には「ジョウ」と記されている。働き始めて間もないのだろう。ジョウはいつも自信なさげにレジを打っていた。
毎日のようにそのコンビニに通い続けるうちに、マキはジョウに不思議な親近感を持つようになった。初めのうちは他の店員と同じように不愛想な態度だった彼が、少しずつ変化していったのだ。接客は丁寧になり、時折笑顔まで見せるようになった。
多忙で心身ともに疲弊していたこともあり、無意識に精神的な救いを求めていたのかもしれない。自分より年下の若い男が異国の地で頑張っている姿を見て、マキは少なからず元気をもらっていた。
マキには行きつけのバーがあった。毎週水曜日は仕事が休みであるため、その前日、つまり火曜日の夜は決まって足を運んでいた。一人で行くことがほとんどだったが、寂しさを感じることはなかった。彼女は小さな頃から社交性が高く、人見知りしない性格。そのため、バーのマスターや店員とすぐに親しくなったのだ。
その日もマキは仕事終わりに店へと向かった。扉を開けると、マスターの「いらっしゃい!」という元気な声が飛んでくる。マキはいつも通りカウンターの端の席に座ろうとしたが、そこには既に客がいた。いつも平日の遅い時間にくるため、先客がいるのは珍しかった。彼女は仕方なく、その客から一席空けた席に腰かけた。メニューも見ずに生ビールを注文する。店員の若い男が「了解です!」と軽い調子で言ってカウンターの奥に消えて行った。マキは少し気になって、先客の方を横目で見てみた。その瞬間、思わず「あ!」という声が漏れた。そこに座っていたのは、コンビニ店員のジョウだった。目が合ってしまって焦ったマキは、咄嗟に「〇〇町のコンビニで働いてますよね?」と聞いた。ジョウは「はい」と答えた。
前述の通り、マキは社交性がとても高い。誰とでも仲良くなれるタイプの女性だ。海外留学の経験もあり、外国人の友達も多い。そんな性格なので「せっかく一緒になったのだから」とジョウに話しかけた。「どこの国の出身なの?」「歳は?」「日本に来てどれくらい?」など、たくさんの質問をぶつけていく。ジョウは無口な性格のようで、マキの質問に一言二言答えるだけだった。彼は「この店に来るのは初めて」だと言った。マキは「私は毎週来てるよ」と言って無邪気に笑った。マスターも会話に加わり「アルバイトの子よりよく来てるよね?」と茶化した。そんな風にして過ごしているとあっという間に閉店時間となり、その日は解散することにした。
その後、ジョウは毎週火曜日に必ずバーに来るようになった。そして、その度に二人は一緒に酒を飲んだ。ジョウは相変わらず無口で、喋っているのはマキやマスターばかりだった。時折周りから話を振られると、片言の日本語で一生懸命答えている。マキはそんな彼が少しかわいく思えた。
「ジョウってほんとかわいいー」
マキが冗談でそう言うと、ジョウは照れくさそうに笑った。
ある火曜日のこと。その日、マキは友人と食事に行ったため、バーには顔を出さなかった。深夜、友人と別れたマキは家に帰るため夜道を一人で歩いていた。自宅の手前まで歩いてきたところで、数十メートル前方に人影が見えた。ちょうど、マキの住んでいるマンションの目の前に立っている。マキは「こんな夜中に何しているんだろう」と少し不審に思ったが、立ち止まるわけにもいかないので、そのまま歩を進めた。近づくに従い、その人影の姿が明らかになっていく。どうやら、フードを被った男性のようだ。首を曲げ、上の方を見ている。マンションのどこかの部屋を見ているようだった。マキはエントランスに入る瞬間、一瞬だけその男の顔を見た。
驚いたことに、その人物はジョウだった。
「ジョウ?」
マキは驚いて声をかけた。男はマキの方を見た。その顔はやはり、ジョウだった。
「何してるの?」
無言の彼にマキがもう一度声をかけた。
「えっと…ここに友達が住んでいて…」
ジョウは焦った様子でそう答えた。
「それで?」
マキがさらに質問した。
「えっと…大丈夫…じゃあ」
ジョウはそう言い残すと、小走りでその場を立ち去っていった。彼がここにいたことには驚いたが、近くでバイトしているのだから、友達がこのマンションに住んでいてもおかしいことではない。マキはそれよりも「ここに住む友達と何かあったのかな…」と心配になった。
翌日は家でゆっくりと休日を過ごした。翌々日からは変わらず忙しい日々を送り、毎晩コンビニに通った。レジ打ちをしているジョウとは、軽く挨拶をするくらいで、深く会話をすることはなかった。
いつもの日常を送っていたマキだったが、一つだけ気になることがあった。この週、コンビニから家に帰るまでの間、毎日のように嫌な感覚を味わったのだ。それは、誰かにつけられているような感覚だった。後ろを振り返っても誰もいない。だけど気配だけはしっかりと感じた。
結局正体が掴めないまま一週間が終わり、また火曜日の夜がやってきた。職場を出ると、マキはいつも通りバーへ向かった。もう完全に習慣になっている。この日もジョウはカウンターに座って酒を飲んでいた。マスターもいつも通り明るく迎えてくれた。
ひとしきり飲んだところで解散することになり、マキとジョウは店を出た。「じゃあまたね」マキはそう言ってタクシーを拾おうとする。いつもならここで別れるところだが、この日は違った。
「ちょと…話をしたい」
ジョウが突然そう言い出したのだ。
「どうしたの?」
マキは首を傾げて聞いた。
それからジョウは小さな声で語り出した。周りの雑踏にかき消され、全ては聞き取れなかった。だが、伝えようとしていることはわかった。マキはジョウに告白されたのだ。
彼女は予想もしていなかった出来事に驚き、すぐには言葉が出てこなかった。だが、答えは決まっていた。彼には申し訳ないが、マキはそんな気持ちでジョウを見ていない。もちろん好感は持っているが、それは決して恋心ではなかった。
正直に「ごめん」と断ると、ジョウの目つきが変わった。大きな目をさらに見開いて「なぜ」と何度も聞いてくる。マキは丁寧に理由を説明した。それでもジョウは納得してくれない。一方的に自分の気持ちを伝えてくる。
「いい加減にして」
マキは語気を荒げた。その瞬間、ジョウの肩に力が入ったのがわかった。
「なんでだ!?」
ジョウは、今まで聞いたことのないくらい大きな声を出した。そして、両手でマキの肩を掴んだ。
「やめて!」
マキは振り払おうとしたが、力一杯掴まれていて離すことができない。
「なんでだ!?なんでだ!?」
ジョウはそう繰り返す。そして、マキの腰に手を回し、抱きつこうとしてきた。マキは力が緩んだ一瞬の隙をついてジョウから離れ、近くに停まっていたタクシーに乗り込んだ。運転手に指示してすぐに車を出してもらう。ジョウが追ってこないか心配で、車内から後方を確認した。彼はその場に立ち尽くし、ずっとこちらを見ていた。
もちろんそれからはコンビニに行かないようにした。当然、バーにも行かなくなった。毎週の楽しみがなくなることに寂しさも感じたが、あの恐怖に比べれば小さなことである。
ある火曜日の夜。この日もマキは職場からまっすぐに帰宅した。飲みに行くのが習慣化していたので、家で何をすればよいかわからない。とりあえず干していた洗濯物を取り込もうとベランダに出た。何気なくマンションの下を見下ろす。エントランスの前に男が立っている。嫌な予感がした。次の瞬間、その男がフードを下ろしてこちらを見上げた。やはり、それはジョウだった。無表情でこちらを見つめている。
マキは急いで部屋に入った。そして、できるだけ冷静になって考えた。
ジョウは前にも同じ場所に立っていた。その時は「ここに友達が住んでいる」と言っていた。そうだ。今日もその友達に用事があってあそこに立っていたのだろう。そうに違いない。マキは自分に言い聞かせた。
ソファに座り、とりあえずテレビをつけてみる。だが、内容が全く頭に入ってこない。どうしても先ほどのジョウの顔が頭に浮かんでしまう。
こんな日は早く眠ってしまおう。彼女はそう考えて寝る支度を始めた。鏡の前に立って歯を磨く。そこに映っている自分の顔を見て、マキは疲れを実感した。こんなに無気力な表情は見たことがない。弱々しくうがいをすると、そのまま寝室に入った。すぐにでもベッドに横になりたかったが、カーテンが少しだけ開いている。マキはそれを閉めようと窓に近づいた。そしてその瞬間、彼女はあり得ないものを目にした。窓ガラスにジョウの顔が映っていたのである。大きな瞳がこちらを見ている。彼女は咄嗟に振り向いた。だが、そこには誰もいない。部屋は6階で、寝室の外にはベランダなどはない。だとすれば、ジョウは間違いなく部屋の中にいる。マキは恐怖を感じてスマホを手に取った。そして、バーのマスターに電話をかけた。
「マスター、助けて」
マキは震える声で言った。マスターは驚いた様子では「どうした?」と返した。
「ジョウが、私の部屋の中にいる」
彼女がそういうとマスターは「なに冗談言ってるんだよ」と笑った。
「本当なの。信じて」
必死で訴えたが、全く信用してくれない。そして、マスターはこう続けた。
「嘘が下手だな。ジョウなら今うちの店で飲んでるぞ。いつもの席に座ってる」
マキは頭が真っ白になった。マスターは、ジョウが1時間以上前からバーにいると言うのだ。じゃあ、マンションの前に立っていたのは、そして、窓に映ったのは誰なのか。
いくら考えても答えは出てこなかった。あれは明らかにジョウの姿だった。自信がある。だが、状況から考えると自分の勘違いだと考えるしかない。そんな考えを巡らせながら、マキはいつの間にか眠りについた。
翌週の火曜日もマキは職場からまっすぐ帰宅した。先週の出来事が頭にこびりつき、この一週間は仕事が手につかなかった。家にいても落ち着かない。寝つきも悪く、グラス一杯のワインを一気飲みしてベッドに入ることが日課となっている。この日もいつも通りワインを勢いよく飲み干した。アルコールが少しずつ全身に運ばれていく。そのままソファでスマホを触っていると、突然画面がブラックアウトした。真っ暗な画面に自分の顔が映る。悪い予感がした。そして、残念ながら、その予感は的中する。マキの顔の真横にジョウの顔が映ったのだ。前回と同様、まっすぐにこちらを見ている。マキは反射的にスマホを投げ捨てた。後ろを振り返っても、そこには誰もいない。
「どこよ!どこにいるの!お願いだから出てきて!」
マキは冷静さを失い、繰り返し叫んだ。だが、何の反応もない。部屋は静まり返ったままだった。
彼女は次に、投げ捨てたスマホを手に取りマスターに電話をかけた。
「やっぱりうちにジョウがいる!助けて!」
必死に訴えた。
「またかよ…ジョウなら今日もうちの店で飲んでるよ」
先週と同じ回答だった。だが、マキにはその言葉がどうしても信じられない。ジョウがこの家にいるという確信があった。その理由は、香りだ。ジョウには特有の香りがあった。家でよくお香を焚いていると話していたので、おそらくそれが衣服や身体に染み込んでいたのだろう。香水店で働くマキは香りに敏感で、ジョウ特有のその香りを強烈に記憶していた。そして今、マキの部屋全体にその香りが漂っている。
その時、スマホが震えてジョウからのメッセージが届いた。
『いつもそばにいる』
マキは怖くなって家を飛び出した。
翌朝、無理を言って泊めてもらった友人宅を後にし、マキは実家へと向かった。財布とスマホ以外はマンションに置いてきていたが、取りに戻る気にはなれなかった。
それからマキは実家で引きこもるように暮らした。仕事もやめた。家では部屋を真っ暗にし、鏡や窓を見ないように生活をしているそうである。また、強い香水を狂ったように部屋中にふりかけているそうだ。
ジョウの香りをかき消すために。
・・・・・・・
俺が聞いた話は以上だ。この話をしてくれた友人は、「たぶん生霊(いきりょう)の仕業だろう」と言っていた。
●生霊:生きている人の霊魂。意思を持って活動し、他の人に影響を与える。
強い恨みや妬みなどの感情が原因で生じるものらしい。詳しい人によると「『姿かたち』が生霊として現れることはあっても、『香り』が現れる例は聞いたことがない。尋常じゃないくらい強く思っているんだろう」とのことだ。
さらに恐怖なのは、この出来事が起きて10年以上経っているが、それでも現象がおさまっていないと言う点。ジョウは今もどこかで、マキに執着し続けているのだろう。


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