皆さんは、記事③「一人〇〇」で登場した黒マッチョを覚えているだろうか。市民プールで一緒にスライダーに乗り、そのあと訪れた公園のボート乗り場では俺のピンチを救ってくれた男である。実は先日、その黒マッチョと再会するという出来事があった。
その日は休日だった。俺は近くで用事があったので、ボート池がある公園を横切っていた。すると、ベンチに異様な存在感を放つ人間が座っていた。ボディビルダーのような筋肉を身にまとい、鳥にパンくずを与えている。周辺には、気持ち悪いくらいに鳥たちが集まっていた。少し近づいて顔を見てみると、男はパンを撒きながら爽やかに笑っている。クリっとした大きな目に、きらりと光る白い歯。それは紛れもなく黒マッチョの姿だった。俺はあまり関わりたくないと思い、その場を立ち去った。

予定の時間まで少し余裕があった俺は、歩いて池を一周することにした。耳をすますと小鳥のさえずりが聞こえてくる。この公園は自然が豊かで気持ちいい。
ほどよい時間になり、俺は目的地に向かうため公園を後にした。少し歩いて角を曲がると、予想外の光景が目に入ってきた。そこにはまた黒マッチョがいたのだ。今度は急な階段の前でおばあさんと話している。通り過ぎながら聞き耳を立ててみると、どうやら黒マッチョがおばあさんをおぶってやると言っているようだ。
「遠慮しないでください。こんな急な階段を登るのは大変でしょう」
俺の目にはおばあさんが遠慮しているようには見えなかった。むしろ、両手を前に出して明確に拒否していた。
俺は二人の押し問答を横目に階段を登った。
最上段まで登って振り返ると、黒マッチョがおばあさんの背中を押してあげていた。おそらく、これが二人の折衷案だったのだろう。
おばあさんをおぶろうとするなんて…親切であることは確かだが、方向性が独特過ぎる。俺は「この人に関わっちゃだめだ」という思いを強くしつつ先を急いだ。少しすると、早歩きの俺を黒マッチョがすごい速度で追い抜いて行った。本当によくわからない男である。
ほどなくして、目的地のパーソナルジムに到着した。記事⑳でも書いた通り、最近スクワットを習慣化して体つきが改善された。それに気を良くした俺は「もっとナイスボディになりたい」と思うようになり、パーソナルジムに通うことを決めたのである。このジムに決めたのは、単純に友人から勧められたからである。彼もこのジムで肉体改造に成功したと言っていたので、なんの迷いもなく決めた。
ジムの名は「ワクワクゾーン」
実に変な名前である。だが、効果があるならそんなことはどうでもいい。
「こんにちはー!」
ジムに入ると大きな声で迎えられた。元気の良さに驚きつつ、カウンターの向こうに立つ男に目をやる。次の瞬間、俺の目は点になった。そこに立っていたのは、白い歯をキラッと光らせた黒マッチョだったのだ。
俺は言われるがまま、テーブル席に腰掛けた。男が満面の笑みでこちらへやってくる。
「お待ちしてましたよ!」
そう言って話を始めた。ジム内の設備や、コース、料金など基本的な説明をしたあと、男はジムのコンセプトを熱く語り出した。俺のことは覚えていないようだ。
「私が最も大事にしているのはズバリ、ワクワクなんです!」
男曰く、目標を達成するには「ワクワク感」が最も重要らしい。そのため、このジムではワクワクする目標の設定に力を入れている。トレーニング中もワクワクしながら取り組めているかを重要視するとのことだ。
自己啓発の世界でよく「コンフォートゾーン」という言葉を聞く。人間には居心地のいい領域があり、何かの弾みでそこから外れてしまったとしても、自動的にその領域に引き戻されるようになっている。
つまり、大抵の人間は今の状況に居心地の良さを感じているため、そこにとどまろうとする力が無意識にはたらき、目標達成のための行動が取れないということだ。
ではどうすれば良いかと言うと、コンフォートゾーンを現状から理想の領域に引き上げる必要がある。黒マッチョは、この引き上げられた領域のことを、「ワクワクゾーン」と呼んでいた。ジムの名称にするほどの思い入れで、「ワクワクゾーン」と大きく書かれたTシャツまで着ている。
「つまり、引き上げた領域にどれだけワクワクできるかが重要なんです!」
男は熱く語る。その内容には妙な説得力があった。トレーナーをしているだけあって、人をやる気にさせるのが上手いらしい。かくして、俺は3ヶ月24回のコースに申し込んだのだった。
黒マッチョは三浦三郎という名で、個人でこのジムを経営しているらしい。
「周りからは三郎とか三郎さんって呼ばれることが多いから、しげる君も是非そう呼んでくださいね」
三郎さんはどんどん距離を詰めてくる。俺はいつの間にか「しげる君」と呼ばれることになったようだ。
話はそのままカウンセリングに移った。
「しげる君の目標はなんだろう?」
正直「痩せて筋肉をつけたい」くらいにしか考えていなかった。
「う〜ん、細マッチョになることですかね」
俺は思いつくままに答えた。
「具体的な数値はあるかい?」
そんなものあるわけがない。
俺が「ないです」と答えると、三郎さんは手元にあったノートを広げた。表紙には「肉体一覧《男性編》」と書かれている。なんとも不気味なタイトルだ。
そのノートにはたくさんの肉体の画像が貼られており、それぞれに身長、体重、体脂肪が書き添えてあった。
「しげる君の身長だとこの辺りだね。この中で理想の肉体は写真はどれ?」
なるほど。実際の画像を見せることで、理想の肉体を正確に掴むことができるのか。俺は「これだ」と思う画像を指した。
「いいね!でも、これだとかなり努力が必要だな〜」
三郎さんは、俺が選んだ肉体になるためにはどれくらいのメニューをこなす必要があるかを説明してくれた。そして、いくつかの画像について説明を受けたあと、ついに俺が目指す肉体が決定した。
「この肉体になった自分を想像してみて」
俺は目を閉じてイメージした。
「どうだい?ワクワクするかい?」
「少しだけ」と俺は答えた。実際、目標が決まったことでやる気が高まった感覚はあったが、ワクワクとは違う気がした。
「もっともっと、ワクワク感を高めなきゃだめだ」
三郎さんは力を込めて言った。
「どうすればいいんですか?」
俺の問いに、三郎さんの目が輝く。そして力強く言った。
「リアルにイメージするんだよ!!」
三郎さん曰く、ワクワクするためには、理想の肉体をイメージするだけではだめらしい。それを手に入れた後、自分の生活はどう変わるのか、どんな喜びや楽しみが待っているのか。それを具体的に、そしてリアルに想像する必要があるとのことだった。
俺は瞳を閉じ、三郎さんに言われるままにイメージした。
周囲に「カッコよくなったね」とか「いい体してるな」と言われている自分、ピタッとしたカッコいいスーツを着こなす自分、自信みなぎる男になった自分、健康で活力が溢れている自分、そして何より、女性にモテている自分、さらには、自慢の上腕二頭筋で彼女を腕枕している自分…
たくさんの情景が頭に浮かんだ。そして心が躍った。今俺はワクワクしている。
「いいねいいねー!」
三郎さんはそんな俺を見て勝手に盛り上がっている。
初日のセッションはこれで終了した。モチベーションが上がったところでトレーニングに入りたかったが、初日はカウンセリングだけと決まっているそうだ。
「じゃあ、来週までに作成してきてね」
帰り際、俺は三郎さんにある宿題を課された。それは「ビジョンボードを作る」というものだった。ビジョンボードとは、理想の姿を可視化して一つのボードにまとめたものだ。作り方は簡単。ボードを準備し、そこに自分の理想に近い写真やイラストを貼っていくだけだ。なお、三郎さんはこれを「ワクワクボード」と呼んでいる。
俺は帰宅するとすぐにワクワクボードの作成に取り掛かった。パソコンを起動させ、「細マッチョ 〇〇」のワードで検索をかける。〇〇の部分には「海」「男女」「カップル」「スーツ」「パーティー」「モテ」など、感情の赴くままに文字を入れた。画面には、見ているだけで心が躍るようなステキな画像がたくさん表示されている。俺はその中から自分のイメージに近いものをいくつか選び、印刷してボードに貼り付けた。ハサミを駆使して様々な形に画像をカットし、躍動感のあるボードに仕上げていく。我ながらいい感じだ。
最後に、ボードの中心の最も大きなスペースに貼る画像を探した。ここには、理想の肉体に一番近い画像を貼りたい。俺は完璧な一枚を探すため、数百枚に及ぶ半裸男性の画像を閲覧した。そして、その中で一番理想に近かったのが、カルバンクラインのパンツを履いたモデルの画像だった。パンツ一丁でこのカッコ良さは反則だと思う。もし仮に、今の俺が同じ格好をしてカルバンクラインのホームページに登場したら、苦情が殺到することだろう。
選んだ写真をボードの中心にでかでかと貼り付け、モデルの顔を俺の顔写真で覆う。こうして俺のワクワクボードは完成したのだった。


コメント