「チチキタクスグカエレ」
これは母から二年程前に届いたメールだ。文字数や種類が限られていた昔の電報で「チチキトクスグカエレ」という定型文があったらしいが、なぜなんの制限もない現代のメールでこんな分かりづらい文章を送ってくるのだろう。彼女のやることにはいつも頭をかしげてばかりだ。
母は昔から人とは違うセンスの持ち主で、一つ一つの選択が普通と少しずれている。実家の冷蔵庫のお茶は麦茶ではなくドクダミ茶だし、最近まで水槽でウーパールーパーを飼っていた。物欲がほとんどないのに「こち亀」だけは全巻揃えていたり、暇さえあれば録画した「男はつらいよ」のビデオを見ている。それに、ダチョウ倶楽部のファンで、熱心に追っかけをしている。
それから、勘違いがひどいというのも母の特徴だ。例えば、以前QRコードを見て「この迷路、どこがスタートでどこがゴール?」と真顔で聞いてきたことがある。他にも、俺が洗面台に置いていたシェービングフォームを、ハンドソープと勘違いして使っていたこともある。俺が指摘すると「どうりでスースーすると思った」と一言で片付けられた。サクセスのどこをどう見たらハンドソープに見えるのだろう。
そんなちょっと変わった母から届いた電報風メールの意味を解説させてほしい。お気づきの読者もいると思うが、よく見ると「キトク」ではなく「キタク」となっている。電報の「チチキトクスグカエレ」は「父親が危篤状態だからすぐ帰ってこい」と言う意味なので、今回の場合は「父親が帰宅したからすぐ帰ってこい」という意味になる。以上が解説だが、今あなたの頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいると思う。
「なんで父親が帰宅したからって息子が家に帰らなければならないんだ」そう思った人が多いと思うが、これには理由がある。
このメールが届く1ヶ月ほど前に、父は唐突に家を出て行っていたのだ。
父は高卒で家の近所の町工場に入り、事務職員として約40年勤めたあと定年退職した。その時俺は既に就職して家を出ていたから、それからは家で母と二人暮らしになった。父は初め、のんびりした暮らしを楽しんでいたが、そのうち退屈に感じるようになった。母曰く、毎日のように「退職して生活に刺激が無くなった」と言っていたらしい。町工場の事務にどれほどの刺激があったかは知らないが…
そんな生活が続いたある日、突然父は家を出て行った。
「ギリギリで生きていたい」とKAT-TUN顔負けの尖ったセリフを吐き捨て、リアルなフェイスで飛び出して行ったらしい。俺も母も初めは帰って来いと説得を試みた。電話には出なかったためメールで連絡していたのだが、父からの返信はほとんどなかった。あったとしても「帰らない」の一点張りだった。結局、週に一回の生存確認メールだけを約束事項とし、彼の好きなようにさせることにした。
父は普段は寡黙で真面目な人間だが、何かのスイッチが入ると我を忘れて熱中してしまうところがる。ある時は5000ピースのパズルを2日間寝ずに完成させた。終盤は手が小刻みに震え、意味不明な独り言を言っていたことを覚えている。完成後、社交ダンスを踊る男女が描かれたパズルの上で死んだように眠る父を見て、何とも言えない気持ちになった。
またある時はピン芸人日本一を決めるR-1グランプリに出ると言ってエントリーしたこともあった。普段は冗談すら言わない寡黙な父が、なぜ出場を決めたのだろうか。未だに謎のままである。
本番前にはリハーサルも行った。
「どうもでやんす、どうもでやんす」という独特の声とともに登場した父。気色の悪い紫の全身タイツを着ている。こちらがドン引きしていることも構わず、「あれ、僕の仕業なんでやんす」というセリフでネタが始まった。ネタの流れとしては、あるあるネタを言う→その場面を描いたフリップを出す→「あれ、僕の仕業なんでやんす」という決めゼリフを言うといった感じだ。
車を運転しているとき、道路に靴が一足だけ落ちてるの見たことありませんか?
あれ、僕の仕業なんでやんす
知らぬ間に、靴に大きめの小石が入ってることありませんか?
あれ、僕の仕業なんでやんす
服を買うとき、店で試着したときはいい感じだったのに、家で着てみると微妙なことありませんか?
あれ、僕の仕業なんでやんす
ネクタイを締めるとき、何度やっても小剣の方が長くなってしまうことありませんか?
あれ、僕の仕業なんです
もちろん俺は必死で止めた。「絶対にウケないから出場するな」と。だが、いくら言ってもやめようとしなかった。結局、一回戦で敗退していた。
以上のように、スイッチが入ってしまった父を止めることは不可能に近い。
話を一年前のメールに戻す。一カ月前に突然飛び出した父が家に帰ってきたということで、俺は急いで帰省した。実家に帰るとガリガリにやせた父が布団で寝ていた。事情を聞くと、歩いて日本一周をしようとしたらしい。テレビで見た「はじめてのおつかい」に触発されたと言っていた。意味が分からない。
思いつきで家を出た父は明らかに準備不足だった。靴はペラペラの安物。そのためすぐに足がマメだらけになった。その上お金は数千円しか持っていなかったため、食べるものに困り栄養不足に陥った。結局、足の激痛と空腹に耐えかねて道端で倒れていたところを、警察に保護されたのだという。
「もう無茶はやめてほしい」と言う俺に対し、父は「ギリギリで生きていたいんだ」と返した。俺は「いや完全にギリギリを超えてるから」と諭すように言った。だが父は「今後も攻めていく」と謎の闘争心を燃やしている。どうやら完全にスイッチが入ってしまったようで、今後やりたいと思っていることがいくつかあるようなのだ。だが、今回のように無茶をして他人に迷惑をかけるようなことがあっては困る。激論の末、今後は「家の中で完結すること」に限定するという結論に至った。この条件なら、他人に迷惑をかける可能性も低いだろう。
また、父はこの時俺にあるアイデアを打ち明けた。それは、自分の挑戦を動画配信サイトに投稿するという内容だった。帰宅してからというもの、布団の中でひたすら動画を見ていたらしく、ふと「自分もやってみよう」と思ったのだという。また一つ、新しいスイッチが押されたというわけだ。
そんなこんなで父の無事を確認し、俺の帰省は終了した。
数日後、いつも通りの日常を送っていた俺に、あるメールが届いた。父からだった。本文には「まずは1本目」と記載されている。その下に貼り付けられたURLをタップすると、動画配信サイトのアプリが起動した。どうやら早くも最初の動画を投稿したようだ。恐る恐る再生のマークをタップする。画面には、髪を七色に染め、カラフルな衣装を着た父の姿が映し出された。彼は志茂田景樹にでもなりたいのだろうか。
「始まりました!ギリギリチャンネル!」
奇抜なビジュアルに反し、ごくごく普通のチャンネル名だ。
「このチャンネルでは、私が様々ことに挑戦し、人間がどこまでやれるか検証していきます」
説明によると、体を張った企画に挑み、「ギリギリセーフを見極める」というのがチャンネルの趣旨らしい。
「記念すべき第一回は、世界一臭い食べ物と世界一辛い食べ物を同時に食べてみます!臭さ+辛さのギリギリセーフはどこなのか!探っていきたいと思います」
初っ端から結構過激だ。内容としては、シュールストレミングというニシンを発酵させた強烈な匂いの食べ物に、キャロライナリーパーという激辛の唐辛子をかけて食べるというものだった。
閉め切った部屋でシュールストレミングの缶詰を開ける父。あとで知ったことだが、室内で開けると数日間は匂いが消えないため、屋外での開缶が推奨されているらしい。缶を開けた瞬間、父は悶絶した。「臭い臭い」と叫びながら虹色の頭をかきむしっている。しばらくしてなんとか正気を取り戻し、窓を開けて顔を外に突き出した。数分後、「慣れてきた、慣れてきた」と言って缶詰の前に戻ったものの、その顔はまるで死にかけのゾンビのようである。
次に父は「これ、いってみたいと思います」と言い、キャロライナリーパーの瓶を開けた。いかにも辛そうな赤い粉末を、缶詰に振りかける。キャロライナとシュールの運命の出会いである。

かなりの量をかけているが大丈夫だろうか。悪臭を放つトロトロの物体が一気に赤く染まった。何を思ったか、父はその物体を箸でぐちゃぐちゃに混ぜ始めた。見ているだけで吐き気がしてくる映像だ。
「いただきます」
父はそのえげつないビジュアルの物体を持ち上げた。
「辛臭い!辛臭い!」
口に入れた瞬間、聞き慣れない形容詞で味を表現しながら、また悶絶し始めた。その後、なんとか咀嚼して飲み込んだようだが、顔面は汗と涙と鼻水とヨダレでぐちゃぐちゃだ。
「あとからくるやつ!あとからくるやつ!」
どうやら時間が経過するほど辛さが強まっているようだ。我を忘れて発狂している。
「キターーーー!」
織田裕二が目薬を刺したときのような雄叫びだった。何が来たのかはよくわからない。
発狂で全ての体力を奪われたのだろう。最後はかすれた声で「ギリギリアウト」と締めくくり、この日の動画は終了した。
後半へ続く



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